病的な白さ、健康的な白さ

江戸からの美的感性といえるものは、もちろん現代についてもしっかりと受け継がれています。それが、現代の人の中にある美白嗜好の基盤となっているのではないかと思います。資生堂によれば、1987年ほど、約900億円規模だった美白化粧品の市場は、10年後には倍増し、最近では男性にまでも広がりを見せてきています。
美白の流行には30年ほどの周期があるという分析を打ち出している研究かもいます。その途中で、浅黒く焼けた肌に健康的なイメージと活動的なイメージを重ね、自立した女性のポイントとした時期もありましたが、それも結局は白への回帰におさまりました。
その後、漂白といううたい文句の化粧品も相次いで発表されることとなりました。白い肌を得るために、さまざまな成分が使われていたので、現代ではまるで考えられないような事件が起こることもありました。
古くは奈良時代、中国から製法が伝わった鉛や水銀の白粉を使って美白を得るというものです。江戸時代には透明感のある水銀白粉は額に塗り、他の部分には鉛白粉を使っていたとされています。これはどちらも口に入らない限りは害になることはないのですが、乳母すらも帯から上には鉛白粉を使っていたので、乳幼児がそれを口に含んで鉛中毒になるということもあったほどです。
また、歌舞伎役者なども唇にまで白粉を使うことが多かったのですが、そこでも事件がおきています。1887年、明治20年に、四代目中村福助が両陛下臨席の舞台にて、中毒のために震えが止まらなくなってしまうという騒動が起こっています。
そういった時代の流れがあり、無鉛白粉の開発が急がれることとなりました。また昭和初期のころには、ヒ素までもが美白剤として飲まれていたこともあったのです。1941年の「家庭でできる化粧品と美容薬の作り方」という本にも、『内用白美薬』として紹介されています。
それよりも前の、29年に発表された川端康成の小説「浅草紅団」にも、「肌が白く透き通ってゐるやうに」亜ヒ酸(ヒ素)を飲むという記述があるほどです。
50年代後半の新製品ラッシュになると、新しい成分が次々に生み出されることとなりましたが、ハイドロキノン・モノ・ベンジルエーテルや過酸化水素水、白降汞(はくこうこう)といったものなどは特筆して皮膚炎の原因になりましたので、現在の厚生労働省から使用禁止とされています。女性の中にある、白い肌への強い執着を感じさせる歴史ですね。

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